母の認知症を受け入れるまで
いよいよ介護がはじまるという自覚が生まれてから、介護申請をするまで1年以上かかりました。
母が認知症を発症したことをなかなか認められていない上に、仕事も自分の裁量で出来る自営業だったので、基本的に在宅していたので、もし何かあれば自分がいるから、介護申請はまだいいだろうという気持ちがありました。
今では、この時の自分の心構えが、母の認知症を受け止めていない表れであることはわかります。
しかし、当時は母の認知症が次のステージを迎えるのが怖かったんだと思います。
とりあえず僕は在宅で仕事をしているし、買い物も僕が出来るし、炊事も僕が出来る。
洗濯は洗濯機をまわせば干すのは母がやってくれる。
風呂も温度調整までやってあげれば、まだ一人で入れる。
それでも少しずついろんなことが変わってきていました。
介護を1人でやる危険性を最初に認識できる日々
父が毎日のように失禁をするようになり、トイレの掃除と洗濯をしないといけないが、母は以前とは違って、それを汚いから私はしたくないというようなことを言うようになりました。
どんなことでも自分が犠牲になって、3人の男の子を育ててくれた母が、父の世話をこれまでずっとしていたのに、ここへきて(発症後)、父に何かあると必ず僕を呼びにくるようになりました。
その時でもまだ僕は介護申請をしないで踏みとどまっていました。
理由はやっぱりまだ父も母も自分がそばで見てやるのが一番幸せなんだという思い込み(もちろん間違いではないが)があったのです。
がんじがらめの日々。働きたくても働けない。
もし、僕が仕事もしないで専属で父と母を見ていくのであれば、あのままでも良かったが、僕は家からほとんど出れない状態になっていて、自分の事業もうまく行かないようになりました。
2022年9月に僕は行政書士を廃業しました。
冷静に考えて、父と母の年金だけで食べていくわけにはいかない。
介護申請をしないといけないというのは、差し迫って僕の頭の中にはなかった。
なんとなくまだ大丈夫という気持ちがありました。
介護について相談できる人が身近にいなかった
もし僕のそばに介護について何か一つでも相談できる人。
例えば現在の僕のような人がいたら、もっと色々と相談に乗ってくれるだろうなと思います。
その頃、僕は友人や兄弟に介護が厳しい話はそれなりにしていたのですが、誰一人僕のことを助けてくれませんでした。
というか、介護を経験していない人に介護のことはわかりません。
僕が今、もし身の回りに誰か介護で困っていて、身動きできない人がいたら、やっぱり何か助けてやることができると思います。
もちろん、介護の渦中にいる人は過敏になっているので、僕が経験したことをただ言いたいだけのようにいろんなことを指南することはしないように、何か力になりたいという気持ちを示すだけですが。
そういう状態が半年続きました。
母の症状が少しずつ、世間に露呈されていく
秋から冬、正月を迎えて、真冬の2月に母が、親戚の叔父に「ちょっと今から迎えにきてくれないか」と電話をしました。
自宅にいながら、「家にもう帰る」と言い出すのは、認知症(アルツハイマー型)の典型的な症状ですが、とりあえずそれに初めて出会う人は、とにかくびっくりするというか、いきなりお前とこのオカン「頭おかしいぞ」ということになる。
この本を読めば認知症のことを知ることができます。
僕はその症状をしばしば見てきていたので、そばにいるのは辛かったけど、なだめるとおさまっていくので、なんとかやり過ごしていたのですが、親戚はそんなわけにはいきません。
彼らは僕を呼び出して、まるで説教をするように「施設へ」的なことを言いました。
そして、兄二人(東京で暮らしている)を呼び出して、なんとかしろよというようなことを言いました。
親戚も兄弟も誰1人として当てにならない
僕はこれまでいくつか困っていることを親戚にも兄弟にも伝えてきましたが、真剣に相談に乗ってくれなかったのに、母の奇妙な行動には過剰に反応して、すぐにでも社会福祉協議会へ行ってこいというようなことを言いました。
僕は半年前から事業を廃業して、小学校の給食調理員として働きに出ていたので、時間がありませんでした。
幸い、3月中頃から学校が春休みになるので、その時期に介護申請をするから、それまで待ってくれということで、親戚一同には話していました。
社会福祉協議会の抜き打ち調査がはいりました
けれども誰も僕の気持ちを察してくれる人はいませんでした。
僕が働いている留守の間に、市の職員(福祉相談室みたいな部署の)が家にやってきて、うちの調査をしていきました。
僕がそのことを知らないで、いつものように夕食の用意をしていると電話がかかってきて、昼間にお宅にお邪魔して、ご両親を様子を見せていただいたが、ちょっとあまりにも酷いのでという話をされて僕は寝耳に水でした。
どうして家に来たのか僕が尋ねると、ある地域の人から通報を受けて、調査に来たとのことでした。
それはどうやらうちの親戚筋の人で、はっきり誰かはわからないけど、僕が待ってくれと言っていた誰かが、誰かに頼んで、社会福祉協議会へちょっとあの家のこと見てきてくれへんかということだったらしい。
「もうお二人とも相当悪いです」
電話口で僕はその社会福祉士の男性と大喧嘩をしました。
「勝手に家の中を見られて不愉快だ」というような話だったと思います。
しかし、彼もやはりプロなので、決して僕のことを見放しませんでした。
結局、僕は親戚に言ったことと同じことを社会福祉士の方に約束して、電話を切りました。
つまり春休みになって、仕事が休みになったら、必ず相談窓口に行くという約束をして。
その社会福祉士の方と看護師の方が家を訪問した時、父も母もいたけど、父はズボンの前が濡れていて、母は小さい子供が家にいるからというようなことを言っていて、もう二人とも相当悪いですというようなことをそれとなく僕に言いました。
助けてくれたのは社会福祉士の方、1人のみです。
わかりますか?
僕は結局、自分の意志では介護申請へと動けなかったのです。
僕は親戚の過剰な善意というか、ある種の悪意めいたおせっかいに助けられた形で、介護の扉を他人からこじ開けられたようなものでした。
僕は春休みまで待てずに3月の初旬に相談窓口へいきました。
その時、初めて会った社会福祉士の男性はとても穏やかで、電話口で失礼な物言いをした僕に、何事もなかったように接してくれました。
僕はその場で電話での非礼を謝罪して、その日に介護申請の話を進めることになりました。
強制的に家庭に介入することの必要性
あの時、彼に会っていなかったら、今頃、こんな風な日常は訪れていないだろうなと思います。
介護申請までにもっと色々あったと思いますが、僕が今、思い出すのは、抜き打ちの家庭訪問に僕が完全に理性を失ったことでした。
僕は二人の家族を必死で守っているつもりでいたのです。
そこへ第三者がいきなり入ってきて、家が酷い状態だと言われたことで、その過酷な環境を断ち切ることができました。
家族が認知症になったら、それで終わりではありません
3月末に介護申請の見込みがたち、デイサービスに父と母、二人で通うようになりました。
父、母二人まとめて介護申請というのもその社会福祉士さんの提案でした。
母が多分、デイサービスに行きたがらないだろうから、父とセットで介護申請をするというのが今、思うと完璧な提案だったと思います。
僕一人ではそんなこと考えもできなかったですから。
その頃から、今でちょうど1年経ちますが、父も母もその頃より元気になっています。
母の認知症は若干進行したような気もしますが、僕自身も1年経って、いろんなことを経験してきているので、なんとかやってこれています。
認知症はなったら終わりだと思ったこともありましたが、決してそんなことはありません。
僕は少なくとも去年の今頃より3人で幸せに暮らしています。
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