家族が認知症になったら、それで終わりではありません。

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母が認知症になってしまった

2024年4月21日(日)の現在地/母と散歩に出かける

2日前の日曜日(4月21日)、天気が良かったので母と散歩に出かけました。散歩は日常的に出かけています。

距離にして約2Kmぐらいですが、母を連れて歩きます。

歩いて、歩いて、歩き終わると、僕は毎回、まだまだ大丈夫と一つ胸を撫で下ろします。

2021年1月に母の認知症に自覚する

母が認知症になったのは、2021年の1月です。

正確にはもっと先の脳神経外科のクリニックでの診断結果が出たときか、それとももっと前からそれらしい症状が出ていたときか、発症の時点を定めることはできなくないが、僕自身が母が認知症になったと自覚したのは、2021年1月です。

そしていつもそこから何年経ったかを数えています。

特定健診の大腸検査の再検査がきっかけ

その前年に母は、特定健診の大腸検査の項目で、ひっかかり、再検査を年末に行うことになりました。

再検査は特定健診を行なったクリニックでしたのですが、大腸検査は前日から準備があります。

大腸検査をされたことのある人はわかると思いますが、前日からの準備がけっこう大変です。

大腸検査の前日準備の説明が理解できない

この前日準備の説明を母はクリニックで1人で受けてきたのですが、夕方、クリニックの方から電話がきて、大腸検査の説明をもう一度お母さんにしたいのですが、息子さんも一緒に来ていただいた方が良さそうなので、大腸検査の前日までに一回、来院してくれますかということでした。

その時は僕はまだ不思議も何もありませんでした。

この年齢になった母にはよくあることで、スマホもカードの引き落としの口座の変更も何度説明しても、母は理解できないので、おそらくクリニックの大腸検査の前日準備の説明も理解できなかったんだろうと鷹を括っていました。

あくまでも認知症であるという可能性を考えない日々

後から振り返れば、すでに認知症がはじまっていたということですべて説明がつきますが、その時はまだそんなことを微塵とも考えていませんでした。

ただ、親が歳をとるということはこういうことでクリニックに付き添ったりしないといけないのかぁと軽い気持ちで感慨に耽っていました。

少しずつ外堀を埋められていく気分

それから検査の当日、診察室に入った母を待合室で待っていると、看護師さんが僕のところへやってきて、「お母さんは朝、ご飯食べて来たんですか?」と聞きました。

「昨日、夜から指示どおりにしています。朝も食べていません」

「そうですか、お母さん、朝は何か食べましたかと聞いたら、朝ご飯食べたとおっしゃるのでね。食べてないんですね?」

「食べていません」

そのとき一瞬、僕は心臓が止まりそうになりました。「いや、そんなわけがない」

ただ、質問に対する答えを間違えただけだろうと思いました。

僕は少しだけ不安になりましたが、まだその現象に向き合うことができませんでした。

ただの老化の物忘れ。

母は老いてきているんだ、だから僕が一緒に来ているんじゃないか、と自分に言い聞かせていました。

大腸のポリープのことは全然、心配していないのだけど

結局、再検査の結果も良くなくて、再々検査が必要ということで、総合病院へ紹介状を書いてもらいました。

大腸にどうやらポリープが出来ているらしく、それが悪性か良性かを調べるためにもう一度、大きな病院で検査をしてくださいということでした。

僕は少し困惑しました。

再検査は年をまたいで翌年の1月末。

けっこう時間があります。

もう母は自立していないと、認めないといけない

母はそんな再検査があることも、大腸の検査で引っかかったこともすっかり忘れて暮らしていました。

検査の前日に再び説明をすると、母は渋々、前日準備をしてくれました。

僕が動かないと母の暮らしが前に進まない。

この時点で、もう母は自立していないと、今では思いますが、その時は、歳のせいだと僕は思っていました。

お母さん、ひょっとして認知症ですか?

担当医から呼び出されて

そして総合病院での、検査。

待合室で待っていると母の検査を担当する医師の方から僕だけが呼び出されました。

その時も、看護師さんが「息子さんだけちょっと先生のところへ来てくれますか?」とひそやかに呼びに見えました。

僕は母の検査でなんか問題があったのかと思いましたが、まだ検査も始まっていない段階のことでした。

「お母さん、ひょっとして認知症ですか?」

厳しい刑の執行を宣告されたような気分でした

僕はなんと答えたのか覚えていませんが、その若い先生の指摘に同調するように、最近の母の物忘れの症状を一つ、二つあげたようだった気がします。

でも、その若い先生は僕に同情することもなく、一度、そちらの方も検査してもらったほうがいいですねと言いました。

待合室に戻った僕は胸が締め付けられる思いでした。

胃がきゅうと小さく萎んでいくような苦しくて、吐き気もあったようにも思えます。

市営グラウンドの駐車場

その日、母は大腸のポリープでかなり大きなものを切除したので、数日の間、容態を見るということで入院することになり、僕は1人で家に帰ることになりました。

夕方、病院横の市営グラウンドの駐車場で、僕は車の中で、初めて母の認知症が間違いないことを確信して、入院するときのベッドに横たわる不安な母を思い出して涙しました。

エンジンをかけていましたが、すぐに発車できず、エンジンを切りしばらくそこで考えを整理していました。

僕はその日は日帰りで大腸検査を終えて、一緒に帰れると思っていたので、思いもよらない展開でかなり動揺しました。

父には母の認知症の話はしていない

家に帰って父に母がいないことを聞かれましたが、父に母の病気の症状を話したところで、理解できると思いません。

父は耳が聴こえないので、紙に母が入院したことと、大した病気じゃないことを書いて、説明した。

認知症ということも説明したかったですが、多分、説明しても理解できないだろうと思ったのと、とりあえず誰にも母のことは話したくないと思いました。

母からの電話に怯えた1週間

母の入院の間、母は携帯電話から僕に何度も電話をかけてきました。

「あのな、お母さん、今、病院におるんやけど、迎えに来てくれんか?」

「あかんよ、おかん、今、入院しとるんやで」

「どこが悪いの? どっこも悪ないのに。ここの人らに聞いても何も教えてくれへんのやもん」

「また退院の許可が出たら迎えに行くで、もう少し待っといて」

コロナの真っ只中で、面会もできないので、僕にどうすることもできません。

母のいない家

母は1週間入院したのですが、それはとても長い長い1週間でした。

母のいない家を僕はとても寂しく感じました。

東京で19年間、一人暮らしをしてきた僕でしたが、母が不在の1週間の父との暮らしをこの上なく寂しいものだと感じました。

母が認知症を患って、そのことにまだ気づいていないことを知っている僕が家に不在の母を思うだけで、涙が出てきました。

母がこれからどうなってしまうんだろう?

あと何年、一緒に居られるんだろう? 

漠然とその時に思ったのも事実です。

不安しかありませんでした。

僕のそばには頼りになる人は誰も居ませんでした。

そこにはずっと母がいてくれたのです。

ずっと頼り甲斐のある母と2人で、病気がちの父の面倒を見てきたのです。

僕の最大のパートナーが母だったわけです。

その母がこれからどうなってしまうんだろう?

僕の人生は大きな曲がり角を迎えていました

母の不在の間、父は母のことを探して探してします。

「お母さんどこへ行ったんや?」

その都度、入院していることを説明する僕。

父が落ち着くと病院から母がはやく迎えにきてくれという電話がかかってきます。

2021年1月。

僕の人生は大きな曲がり角を迎えていました。

母の認知症を受け入れて、介護に対する覚悟を決める

母が認知症であることを知っている

おりしもその前年の9月に初めて自分の事業を立ち上げたばかりでした。

母が僕の独立開業を一緒にお祝いしてくれたばかりなのです。

母は退院してから、普通の人のように暮らしていましたが、僕は母が認知症であることを知っていました。

少しずつ僕は母のことを深く観察するようになっていました。

そして、なんでもないことでもありがたく感じるように暮らしていました。

母が少しずつ自分の変化に自覚的になっていく

とにかく母の認知症が進行するにつれて、僕の不安は大きくなっていきました。

そして、母が少しずつ自分の変化に自覚的になって、色んなことができないことに絶望を感じて泣いている場面に遭遇すると僕は胸が苦しくて、なんとかしてやりたいと思うのでした。

俺がついとるから大丈夫やから、というのが精一杯でした。

僕自身の状態ももうすぐ限界という日々が続きました。

介護離職という言葉を用いたいぐらい苦しんだ

1人で、自立していない親を2人見るというのは、本当に過酷なことです。

僕は兄弟の誰に対しても、僕1人にそんな思いをさせたことは文句を言うつもりはないですが、僕はこういう風に自分の感じたことは隠さずに書くことだけは許してもらいたい。

家事が追いつかず、2人の病院や、なんかで結局、僕は働いている暇がなくなりました。

アルバイトにも行きましたが、結局、家を離れることができずにすぐに辞めてしまいました。

介護離職という言葉が適当かどうかはわかりませんが、僕が事業を続けていけなくなったのは、親2人を背負っていたからです。

ただいっさいは過ぎていきます

多分、こういうふうにどこかで書かないと自分の気持ちに蓋をしたままになっているので、事業を諦めた僕自身の悔しさなども成仏できません。

同時に、過ぎてしまえばどうでもいいことだとも思います。

家族が認知症になったら、それで終わりではありません。

母は、まだまだ大丈夫

僕が最近、よく思うのは冒頭にも書きましたが、母は、まだまだ大丈夫ということです。

2021年1月に母の認知症を知ってから、僕はそれを受け入れられずに、絶望の淵を彷徨っていましたが、長い月日の中で、それを受け入れて、試行錯誤して、あらゆる生活の不便を克服して、人生を盛り返してきました。

2024年4月現在。母はまだ僕の知っている母のままです

そしてこの記事の執筆現在は2024年4月ですが、母とまだ一緒に暮らしています。

母はまだたくさん笑うし、テレビを見ては歌は歌うし、トイレも自分で行けるし、カレーの野菜も処理してくれます。

休日の散歩も一緒に出かけます。

母との日々は、僕にとっても大切な記録です

もちろん、色んなことができなくなってしまいましたし、認知症特有の言動がありますが、基本的には母が別人格になるということはなく、認知症になる前の穏やかな母のまま、少し壊れた穏やかな母になったまま、今も一緒に散歩しています。

これは、僕にとってはとても大切な記録です。

認知症になってから、3年3ヶ月が経ちますが、母はまだまだ大丈夫です。

そして、3年3ヶ月の間に僕自身がとても強くなったと感じています。

これからは濃密な家族としての時間

これは本当にこの先、ずっと言い続けますが、家族が認知症になったら、それで終わりではありません。

そこから濃密な家族としての時間が続きます。

もちろん、それはこれまで通りの時間ではありません。

行きたい時に行きたいところへ行けず。

夜も出かけることはできません。

仕事も何度も休まないと行けなくなります。

苦しい。

もう終わりたい。

そう思うことから、僕は始まったような気がします。

暮らしを守る、家族を守る、自分を守る

残された家族との時間を守るというのが、今の僕の課題です。

そのために僕は健康な身体を作り、栄養価の高い食事を毎日作り、節約と投資、色んな知識を吸収して、なんとかこの時間が長く続くようにがんばっています。

正直、東京で一人暮らししながら、自分の夢を追っているときは、こんなにがんばれませんでした。

いつか、夢の方からこっちにやってくるだろうぐらいの気持ちでいました。

今は、たぶん、その逆です。

僕はもうその大事なものは持っていて、それがいつかここからなくなってしまうから必死になって守っているんだと思います。 

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