母の認知症を受け入れるまでの3年間。介護申請して生活を取り戻しました。

目次

介護申請をするまで

介護は最初の3年が大変です

介護は最初の3年が大変だと、介護2年目に読んだ本に書いてあって「うんうん」と同意したのをよく覚えています。

母の認知症を受け入れるまでに3年間、僕は苦しい時間を過ごしました。

もっと早く介護申請すれば良かったと3年後に感じていますが、悩みに悩んだ3年間はとても大切な時間でした。

その頃に読んでとても響いたのが山口恵以子さんの『いつでも母と』という本です。

以下の記事で、その本について述べています。

母が認知症になった

母の認知症の症状が出始めたのが、2021年1月。

大腸検査の再検査でおこなった内視鏡検査に付き添った時に、担当の医師に僕ひとりだけが呼び出されて、質問されたのです。

「お母さんはひょっとして、認知症ですか?」

その時まで僕は「認知症」という言葉を口にしてきませんでした。

母の前では、あえて「物忘れ」といって、母をなだめるように、本当は自分をなだめるために、母に関しては年齢的な衰えだからということで、曖昧に過ごしていました。

母が母でなくなる予兆

母は大腸にポリープがあったので、それを切除するために1週間入院しました。

入院した1週間で、母は間違いなく認知症だということを僕は確信しました。

入院先から母は毎晩のように電話をしてきて、「帰りたい」「はやく迎えに来て」と電話を寄越しました。

それはもう、これまで僕が誰よりも頼りにしてきた母の振る舞いじゃありませんでした。

以下の記事で、当時の頃を詳しく記録しています。

仕事どころではなくなってしまった

少しずつ仕事に影響を及ぼしていく

当時、僕は行政書士事務所を開設したばかりで、少しずつ営業活動をはじめていました。

しかし、母のことが頭から離れませんでした。

一緒に暮らしていたから、毎日、様子を見ることができ、安心していたのですが、母から気持ちが離れることがありませんでした。

家を離れることができなくなった

仕事は思うようにはいきません。

先輩の行政書士から仕事を紹介していただくが、家のことが頭にあるから、フルに動けず、せっかくのいい仕事も断らざるを得ませんでした。

母がもしこれまでの気丈な性格な母のままだったら、自分の病気より、何よりも僕の仕事を優先して、僕を家から追い出してでも先輩の仕事を手伝うように言ったでしょうが、認知症だけは別でした。

僕が仕事でちょっとの時間を家を離れるようなことを告げると母は、とても心細いことを述べて、僕は自由に家から離れられませんでした。

電話に出た母に対するクレーム

ある時などは、折り返しの電話がいつまで経っても来ないと客からのクレームが入りました。

うちは自宅開業だったので、母が電話に出て「息子が帰ったらすぐ電話するように言います」と答えていたようです。

「お母さんにお願いしたのに伝えてくれないんですか? ずっと待っていたんですが」

母はそのことを忘れていて、母に文句を言ったとことで口論にもならないから、悲しくなりました。

母の症状のために留守番電話にしていませんでした

認知症の特徴として、長期記憶は残っていても、短期記憶が残らないというのがあり、母はその日の朝に誰かが家に来たことも、朝にご飯を食べたことも、午前中に病院に行ったことも何もかも忘れてしまうようになっていました。

だから家の電話に出たら出たで、それきりでした。

だったら留守番電話にしていくから電話に出ないでくれとも言えるのだが、そうしたことで、それが母の症状にいい影響を与えるとは思えませんでした。

父は二型糖尿病で、家庭は崩壊寸前でした

もう一人、我が家には介護が必要な父がいて、父は二型糖尿病で、痛風持ちで、さらに病院嫌いで薬を定期的にもらいにいかないから、何度も何度も悪症状を繰り返す。

その度に、僕と母は父の面倒を見ないといけないのでした。

東京で暮らしていた僕が実家に帰ってくるまでは、母が一人で父の世話をしていたのです。

長年のアルコールのせいで父はほとんど壊れていて、失禁もするし、風呂も入らないし、認知症の母のことを大声で怒るしで、家での僕の緊張は極度に高くなっていました。

行政書士であることが家にいるための口実になっていた

いつの間にか行政書士であることが、家にいるための口実になっていることに僕は気付かされました。

もう駄目かもしれない。

いやもう駄目なのはわかっていました。

辞めれないのは苦労して資格を取ったこと、周囲の目も気にしていたのでしょう。

家にいると介護せざるを得ない日々

専門家として様々な人々にちやほやされた時期があり、その頃の認められた思いが捨てられなかったのです。

現状はもう士業を営むものではなく、ただ家で母と父の食事の世話、父の汚れた下着を洗濯したり、薬を忘れないで飲ませたりしているだけの人でした。

母は毎日、僕が家にいることに安心しているし、僕も自分が家にいる限り母の不安は取り除けるからひとまず安堵していました。

介護に疲れきってしまった

このままでは、共倒れになってしまうという思いから、僕は2年間続けてきた行政書士の仕事を辞めることにしました。

僕自身もまともな判断ができなくなっていました。

介護に疲れきっていて、何ひとつ介護以外のことが考えられなかったのです。

そして廃業。本格的な介護生活がはじまる。

辞めると決めてからは本当に楽になれた気がしました。

もう明日の儲けのことを考えなくてもいい。

家の電話も出ないようにしたらいい。

廃業するというのは、開業するよりずっと楽でした。

以下の記事で行政書士の廃業した頃のことを書いています。

介護申請をしてから、転機をむかえる

学校給食調理員が人生を切り拓く鍵に

行政書士に関してはたくさんの時間とお金を費やして、行政書士になる前から投じてきたものをほとんど回収することはなかったですが、母の認知症の初期から中期をそばで一緒に過ごせたのは今思えばとても大切な時間だっと感じています。

その後、僕は学校給食調理員として小学校で働くようになり、なんとか自分に合う職場を一回の転職でみつけることができました。

もっと早く介護申請をすればよかったと後悔しています。

それから約半年後に介護申請をして、父が要介護1、母が要介護2の認定を受けて、公に開かれた介護が始まりました。

今思えば、もっと早く介護申請をすればよかったと思っています。

今のように生活が戻るということをイメージできていれば、もっと早くそうしたでしょう。

以下の記事で書いていますが、実際にはすんなり介護申請をしたわけではないんです。

介護申請してからも、しばらくは苦行が続きました

もちろん介護申請をしてからの1年間も非常に苦しかったです。

なにしろ父も母もデイサービスへ行くことに前向きではなかったから、何かあるごとに仕事場へケアマネージャーさんから電話があり、その都度に心臓が止まる思いで、「次はなんですか?」と着信に怯えていた時期もありました。

それでも先日、介護申請の更新をして、二人とも前年と変わらず要介護1、要介護2となんとか2年目(僕としては介護4年目)を迎えることになり、母はなんとか元気に暮らしています。

母よりも父の方が、介護申請をして良くなりました

父も介護の認定を受けてから、とても扱いやすくなりました。

デイサービスに通い出した頃の父は大変だったんです。

以下の記事で父の介護で苦労した経験を語っています。

もう4年以上、旅行にも行けてません

現在も毎日、とても大変です。

もう僕は4年以上、旅行にも行けてません。

僕は元バックパッカーでしたので、一人であちこち行くのが好きでしたが、それも今は、全てが終わった時の楽しみにとってあります。

ブログを書くことで、人生を充実させるしかない

今は両親がデイサービスへ行くことに前向きになってきていることや、僕の職場での人間関係が充実していることやなんかが上手く合致していて、ようやく生活が戻ってきた気がして、気持ちに余裕が出来たりして、このブログを始めたというのも本当です。

僕は自分が感じているより大人になったような気がしました。

父のリハビリパンツを変えているときに、父は上機嫌で「坊はええ奴やのぉ」というのを聞きながら、自分の今の幸せは僕を中心としたこの三人の家族で行けるとこまで行くことだと思いました。

リハビリパンツを定着させるのにも随分、苦労をしました。

言いたいのは、これだけ

介護にとって大事なのは、自分が強くなることです

大切な母、父だからこそ自分が強くなって守ってやらないと行けないのです。

僕はそういう風な気持ちができるまで3年かかりました。

3年が長いと思うかどうかの判断はまだできないですが、しばらく介護備忘録としてブログを書いていこうと思います。

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